返事がないとき、相手は止まっていない

雑記

何か言っても、返事がない。

うなずきもない。聞こえていたのかどうかも分からない。それなのに、しばらくすると黙って動いている。

あの数十秒が、いちばん不安です。


注文がゼロになっていた時期、私はよく人の言葉を取りこぼしていました。

聞こえてはいる。でも、頭の中が別のことでいっぱいで、返事という作業まで手が回らない。相手には、無視しているように見えていたと思います。

あのとき分かったのは、無反応は「何も起きていない」ではないということです。


人は、目的地に着いていない限り、必ず何かを漕いでいます。

ただ、漕いでいる場所が水面下にあるだけです。

情報を整理している。言い方を探している。返事をしたら何を言われるかを計算している。どれも作業で、そこに言葉という追加の作業を乗せる余裕が、その瞬間はない。

そして、しばらくして動き出す。漕いでいたことは、そこで初めて見えます。


謝れない人も、似ています。

謝罪を「やったことへの訂正」ではなく「自分という人間への判決」として受け取っている。ひと言認めたら、自分が丸ごと否定される。だから沈黙が、いちばん被害の少ない選択になる。

面白いのは、そこで守られている「変わらない自分」が、探しにいくと見つからないことです。

仕事の自分、家の自分、十年前の自分。場面ごとに違う姿があるだけで、それらを貫く核はどこにもない。

存在しないものを守るために、実在する苦痛が生まれている。

これは、責めても解けません。


だから、こちらができることは要求ではないと思っています。

謝罪を求めるかわりに、次どうするかを聞く。守っているものに触れずに済むので、話が進みます。

返事を求めるかわりに、うなずき一回でいいことにする。言葉を出す余裕がない人でも、それなら返せます。

相手の中で何が起きているかは、結局こちらには見えません。見えなくても機能する形にしておく。それだけで、不安の量は変わります。


そしてもうひとつ。

「なぜ分からないんだろう」と言いたくなったとき、たいていその人は、相手をより深く動けない場所へ押し込んでいます。

押して動いた場所は、押す力が消えた瞬間に元へ戻ります。

自分で選んだのではない変化は、定着しません。

私が教えないコーチと名乗っているのは、遠慮しているからではありません。押さないほうが、結果として遠くまで行けるからです。

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